2009年04月04日

「ご主人様にはナイショ」番外編

会社の前で綾也と出会った場面の光一郎視点です。

 ―――永石不動産本社ビル五階。
 なるべく残業をしない、させないという社の方針もあって、午後六時半を回ったオフィス賃貸事業部は閑散としていた。出先から戻った社員が数人、各自の机でメールをチェックしたり急ぎの電話をかけたりしているが、フロアの照明は半分落ちている。
 溜まったメールに返事を送り終え、永石光一郎はモニターから顔を上げた。
 今日は一日外回りだったため、まだこれから何件か報告書を作成しなくてはならない。
 しかし……席を立つと、光一郎は窓辺へと向かった。
 ―――まだいるのか。
 すっかり暗くなった本社ビル前の広場の片隅。両膝を抱えるようにして、花壇の縁に学生服姿の少年が座り込んでいる。
 街灯を背にしているのでその表情は読み取れないが、あの大きな目を凝らしてビルから出てくる人を見つめているのだろう。
 目が合った瞬間の、不安そうに見開かれた子鹿のような瞳を思い出し…光一郎は軽く眉をしかめた。
 この寒空に、コートも着ていなかった。
 彼を待たせている人物は、彼が三十分以上も待っているのを知っているのだろうか。
 いや、光一郎が見たときにはもう鼻の頭を赤くしてしたから、もっと前からいたのかもしれない。
「永石さん、明日の会議の資料なんですけど、ちょっと見ていただけますか」
 今日一緒に外回りをした後輩の久保が、書類を片手にやってきた。
「ああ」
 窓から身を離し、光一郎は資料を受け取った。
「あれ、あの子まだいるんですね」
 光一郎につられるように窓から広場を見下ろした久保が呟いた。一緒に社に戻ったので、彼も少年を覚えていたらしい。
「あーあ、可哀想に。誰を待ってるんでしょうね。この会社の人かなあ」
 黙って光一郎は資料をめくった。
「彼女だったりして。ああいう可愛い子は年上のお姉さんに可愛がられそうだもんなあ」
 久保は気のいい男だが、何でも恋愛話に結びつけたがる癖がある。
「……まさか。中学生だぞ」
「やっぱり中学生ですかね? 高校生かなとも思ったんですけど」
「どう見ても中学生だろう」
 きっぱり断言すると、光一郎は資料を久保に押しやった。
「本文はこれで問題ない。図のところだけ、流れがわかりにくいから一枚で収まるように簡潔にまとめた方がいい」
「あ、はい。直します」
 デスクに戻る久保の背中を見送り、光一郎はもう一度窓の外を見下ろした。
 少年は寒そうに両手を擦り合わせている。
 十一月初旬の今、まだ凍てつくほどの寒さではないが、日が落ちてから長時間外にいたとなるとかなり冷え切っているに違いない。
 腕時計に目をやると、もうすぐ七時になろうとしていた。
「―――ちょっと出てくる。すぐ戻る」
「え? あ、はい」
 久保に声をかけると、光一郎は大股でフロアを横切った。
 エレベーターホールを通り過ぎて階段を降りようとし、ふと足を止める。二、三歩バックして薄暗いホールの隅で煌々と光を放つ自動販売機の前に立ち、硬貨を入れる。
 コーヒーのボタンを押そうとし―――思い直して隣のミルクココアを押した。
 ごとんと落ちてきた熱い缶を掴むと、今度こそ階段を駆け下りた。


「―――このビルの誰かに用があるのか?」
 つぶらな瞳が、驚いたように光一郎を見上げた。警戒の色がありありと浮かぶ。
 ……怖がらせてしまっただろうか。
 自分の容姿が初対面の相手には少々威圧的に映るらしいことを自覚しているので、光一郎は少し声をやわらげた。
「このビルは七時で閉館になる。誰かを待っているなら、七時以降は裏の通用口から出てくるから、ここにいては会えない」
「…え、あ、そ、そうですか」
 高めの、まだ幼さの残る声だった。
 見知らぬ男に声をかけられて緊張しているのか、少年の顔はみるみる赤くなり…耳まで真っ赤になってしまった。
 いかにも世慣れていないこの少年を、こんなところで長々待たせているのは一体誰なのだろう。
「部署と名前は?」
 つい、詰問口調になってしまう。
 連絡が取れなくて待ちぼうけを食らっているのなら、自分が取り次いでやってもいい。
 柄にもないお節介だが、なぜかこの心細そうな目をした少年を放っておけなかった。
 光一郎の申し出に一瞬間を置き……少年は慌てたように立ち上がった。
「い、いえっ! 結構です!」
 背丈は光一郎の肩のあたりまでしかない。間近で見ると、学生服に包まれた体は随分と華奢だった。
 しかしあどけなさの中にもほんの少しだけ、少年から青年へと変わりつつある兆しが見て取れる。もしかしたら久保の言うように高校生なのかもしれない。
 つい不躾に見つめてしまったせいだろうか。少年は困ったように細い眉を八の字に下げ、視線を彷徨わせている。
「ええと、もう帰りますんでっ」
「待ちなさい」
 帰ろうとした少年を、光一郎は呼び止めた。
 振り返った少年の手に、ココアの缶を押しつける。
「あつっ、…え? あ、あの」
 戸惑う少年に、光一郎は敢えて背中を向けた。
 これ以上彼を困らせては可哀想な気がして。
 それに……会ったばかりの他人に深い関心を寄せるなど、いつもの自分らしくない。
「あの、ありがとうございます…!」
 ビルに足を踏み入れたところで、少年が声を張り上げるのが聞こえた。

 ―――またどこかで会えるような気がする。
 不意に訪れた根拠のない予感に、階段を上りながら光一郎はそっと唇の端を上げた。

(2005.6.4)
posted by 神香うらら at 00:00| 商業誌番外編