2009年04月04日

「子猫の教育」番外編

瑞穂・可知視点のちょっとした後日談です。

 春らしい陽気に包まれた四月の午後。銀座は多くの人で賑わっていた。
 駅から人波に流されるように歩いていた石田瑞穂は、ふとショーウィンドウに写った自分の顔を見て苦笑した。
(まさに、苦虫を噛み潰したような顔してる)
 仕事が立て込んでおり、しかもあまりうまくいっていない。これから会いに行く顧客も苦手なタイプだ。
 もちろんそれをビジネスの場で顔に出すほど子供ではない。ひとりで街を歩くとき、つい眉間にしわが寄るくらいは仕方がないだろう。
 すれ違った大学生らしいカップルの女の子が声を上げて笑っている。その屈託のない笑顔に、そういえば久しく声を上げて笑っていないことに思い当たる。
 学生カップルの男の子の方は、随分と背が高かった。自分が大学生のときにつき合っていた背の高い男を思い出し、唇を噛みしめる。
 ―――可知貴仁。
 つき合っていたと言っても恋愛というにはほど遠い関係だったが……瑞穂にとって、忘れがたい男だ。
 恋愛には淡白だと思っていた自分が、初めて好きになった人。
 だが、可知にそれを悟られるのが怖かった。好きだと言えば、彼が逃げてゆくことはわかっていたから。
 交際は瑞穂からアプローチして始まった。ゼミや司法試験の勉強会で一緒に過ごすうちに興味を持ち、さりげなく近づいた。
 自分の容姿にはそれなりに自信があったし、彼がつき合っていた女の子たちよりもうまくふるまえる自信があった。彼が望んでいるであろう「物わかりが良く、割り切ってつき合える大人の女性」の役をこなしながら、つき合ううちに関係は変えられると思っていた。
(あの頃の私はうぬぼれていた……いつか貴仁に愛されるんじゃないかと思ってた)
 ―――結局、可知に疎ましく思われたくなくてどうしても本心を晒すことができず、関係を変えられないままあっさりと終局を迎えた。
 その後何人かの男とつき合う機会があり、理由は色々あれど終局を迎えたが、可知以上に別れたことを後悔している男はいない。他人に無関心で冷たい男だったが、それでも瑞穂を惹きつけてやまない魅力があった。
(私らしくもない。こんなふうに引きずるなんて)
 物思いを断ち切るようにしゃんと背筋を伸ばす。
 腕時計を見ると、約束の時間までかなり余裕がある。買おうと思っていた新譜を思い出し、瑞穂はちょうど目についたCDショップに立ち寄った。
 高校までピアノを習っていたこともあり、瑞穂はクラシック好きである。自分では弾かなくなってしまったが、コンサートにはちょくちょく足を運んでいる。
 クラシックのコーナーへ近寄ると先客がいた。
 華奢な体つきの少年だ。屈んで熱心にタイトルを目で追い、首を傾げている。
 高校生くらいだろうか。その年頃にしては珍しくオーソドックスな服をきちんと着こなしており、清潔感がある。
 ちらりと見えた白い横顔に、瑞穂は眉を寄せた。
(ひょっとして……)
 目的のCDが見つからないのか、少年が唇を尖らせて振り向いた。
「あ」
 目が合い、少年の方が先に思わずといった感じで声を上げる。
 ―――やっぱり彼だった。
 去年の秋、友人と出かけたピアノリサイタルで偶然会った可知が連れていた少年。それ以前にも一度会っている。
「クリコフのリサイタルでお会いしたわね」
 にっこりと笑顔を作って話しかけると、少年の顔があからさまに不機嫌になった。
 本来なら彼の方があのときの失礼な態度を謝罪すべきだろうに、少年はむっつり黙って瑞穂を睨むばかりだ。
 なんてストレートに感情が顔に出るのだろう。
 これが仕事相手なら大人げない人だと呆れるが、彼がずいぶんと年下のせいか、呆れるというよりなんだか可笑しくなってしまった。
 彼くらいの年頃の少年少女と接する機会がないわけではないが、ここまで取り繕わないタイプは珍しい。常に感情を顔に出さぬよう気をつけている自分とは大違いだ。
「貴仁は元気?」
 ふてくされた顔のまま、一拍置いて少年はこくんと頷いた。
 ひどく子供じみた仕草なのに、不機嫌な顔にほんのりと赤みが差し……瑞穂は思わずどきりとした。
 俯いた彼の伏せた睫毛のあたりに、初々しさと同時にはっとするような色香が匂い立つ。
(……やっぱりそうなんだ)
 なんとなく察していたとはいえ、可知と少年の関係を見せつけられたようで瑞穂は動揺した。
 男同士ということももちろんだが、あの可知が、こんなに生意気で礼儀知らずな子供とそういう関係を結んだことが信じられなかった。
「……前に貴仁があなたの家庭教師をしてると言ってたけど、今もそうなの?」
 人づてに、可知が最近独立して事務所を構えたことは聞いている。だとしたら、忙しくてそれどころではないのではなかろうか。
 ぶんぶんと首を横に振り、少年は顔を上げてその生意気そうな唇を開いた。
「今は僕、高校行ってるもん」
「……そうなの」
 今は、ということは、以前は高校に行っていなかったということなのだろう。
 家庭教師を辞めた後もつき合いが続いているらしいと知って、瑞穂は心臓をぎゅっと掴まれるような息苦しさを覚えた。
「…………」
 黙り込んでしまった瑞穂を、少年がちらりと見上げる。何か言いたそうでもあり、立ち去るタイミングを計っているようにも見える。
 その警戒するような仕草に、子供の頃に拾ってきた子猫を思い出す。子猫はなかなか懐かず、ずいぶんと手を焼かされたものだ。
 それにしても、と瑞穂は彼の顔をまじまじと見つめた。
(憎たらしいほど可愛いじゃないの)
 飼っていた子猫と彼の印象が重なり、瑞穂は口元を綻ばせた。
 この子は飼い主から十分な愛情を注がれている、毛並みのいい高慢な猫なのだ。
 猫だと思えば腹も立たない。
 そして……猫だと思えば敵わないのも納得できる。
「……じゃ、貴仁によろしく」
 元彼女のせめてもの意地でにっこりと微笑み、瑞穂は彼に背を向けた。
 
 妙にすがすがしい気分だった。
 春風に吹かれながら、瑞穂は銀座の大通りを颯爽と歩いた。
 吹っ切れたとまでは言わないが、さっきまでのもやもやした気分が嘘のようだ。
(それにしても、貴仁がああいうタイプに弱いとは意外だったな……)
 ああいうタイプが一番嫌いだったはずなのに。そういえば彼はひどく猫嫌いだったことも思い出し、瑞穂は苦笑いを浮かべた。
 ふと、これから会う顧客の顔を思い出す。ベンチャー企業の若き社長である彼は、どうも子供じみたところがあって苦手な男だ。向こうは瑞穂に気があるらしく、前に一度食事に誘われて断ったのだが……。
(今日もまた誘ってくるようであれば、一度くらいおごらせてやってもいいかな)
 そう考えて、瑞穂はくすりと笑った。


「ちょっと待ってろ。今片づくから」
 事務所のドアを開けて入ってきた少年に、可知はパソコンのモニターから顔を上げた。
 少年……可知の恋人である藤谷衣緒は、大人しく来客用のソファにちょこんと座る。
 今日は早めに仕事を切り上げ、一緒に食事に行く約束をしている。ここのところ互いに忙しくしていたので、デートは久しぶりだ。
 キーボードを叩きながら可愛い恋人の様子を盗み見て、ふとその横顔にいつもと違う何かを感じ取り……可知は手を止めて立ち上がった。
「どうした。学校で何かあったのか?」
 衣緒は今月から単位制の高校に通い始めた。中学のときから不登校になり、久しぶりの学校生活ということで色々戸惑うこともあるのかもしれない。
 衣緒の隣にどさりと座り、可知はその細い肩を抱き寄せた。
「……別に」
 不機嫌なときの癖で、衣緒は唇を尖らせる。
 その態度にますますこれは何かあったなと感じ取り、可知は口元に笑みを浮かべた。
「何だよ。隠すなよ」
「や……ちょっと!」
 更に強く抱き寄せて耳たぶを軽く噛むと、かくんと力が抜けるのがわかる。衣緒の弱い部分を知り尽くしている可知には造作もないことだ。
「……どうした? 俺には言えないことか?」
 耳元で囁き、太腿をまさぐる。
「やだ、誰か来たら……」
 可知の手を振り払おうとする手も、次第に弱々しくなる。
「そうだな。誰か来たらまずいよな」
 そう言いつつ、核心に迫るように可知は太腿の内側に手を滑らせた。
「……っ」
 衣緒がびくっと体を震わせる。
「ほら、言わないとまずいことになるぞ。何があった?」
「…………CD買いに行ったら」
 そこで言葉を切った衣緒を促すように、可知は衣緒の弱い部分を優しく揉んだ。
「ナンパでもされたか?」
「違う……んっ、あの瑞穂って女が……っ」
「瑞穂に会ったのか?」
 意外な展開に、可知は衣緒をなぶる手を止めた。
 真っ赤になった衣緒が、ぷいと顔を背ける。
「……『貴仁は元気?』って聞かれた」
 貴仁、という部分を、衣緒は言いにくそうに小声で呟いた。
 衣緒は可知のことをいまだに「可知」と名字で呼ぶ。いい加減名前で呼んで欲しいのだが、どうやら気恥ずかしいらしい。
 なかなか呼べないその名前を昔の彼女がさらりと言ったことを、衣緒は衣緒なりに気にしているらしい。
 衣緒が焼きもちを焼いていると知り、可知の心はざわついた。
 同時に、体の奥から熱い奔流がこみ上げる。
(嫉妬なんかする必要はない。お前は俺をこんな気持ちにさせる唯一の存在なんだから……)
 心の中の呟きを、可知は敢えて口には出さなかった。
 自分が年甲斐もなくこの愛らしい少年に夢中なことを、本人はわかっているのだろうか。
 まだ恋愛に関しては幼いところもある衣緒に、自分の本心をすべてさらけ出すのははばかられた。
 どんなに独占欲が強くて、どれだけ欲望を抱いているのか、衣緒が知ったらきっと怖がるに違いない。
 一応、可知なりにセーブはしているのだ。
「……お前が大人になったら、もうちょっと遠慮なくやらせてもらうからな」
「え? 何それ……あんっ」
 可愛らしい声を上げた衣緒を抱き上げ、可知は事務所の鍵を閉めにいった―――。

(2006.4.15)
posted by 神香うらら at 00:00| 商業誌番外編