2009年04月04日

「子猫の教育」番外編 その2

敦行編の後日談です。

『おい衣緒。可知は明日留守なんだろ。俺がどっか連れてってやってもいいぞ』
 ―――金曜日の夜。
 受話器を取るなり飛び込んできた台詞に、衣緒は顔をしかめた。
 やけに機嫌のいい声の主は、政岡敦行。衣緒の母のパトロンの息子というやや複雑な関係で……しかし気心の知れた、年の離れた兄のような男だ。電話の向こうでにやにやしているであろう顔が目に浮かぶ。
 衣緒が可知とつき合い始めてまだ一ヶ月も経っていない。敦行には知られているかもしれないと思ってはいたが、やはりばれているようだ。可知は衣緒との関係をあまり隠そうとしないので、敦行に聞かれて正直に言ったのかもしれない。
 照れもあって、衣緒は声を尖らせた。
「敦行さん、なんで可知が留守することまで知ってるの?」
『今日ちょうど仕事で会ったんだよ』
 学生時代の友人の結婚式に出席するため、可知は今夜仕事が終わってからそのまま岡山に向かうことになっている。
 平日にもちょくちょく会ってはいるが、やはり週末は二人きりで過ごしたいと思っていた衣緒は、それを聞いて内心がっくりしてしまった。
 もちろん可知の前ではそんな素振りは見せなかったが。
「敦行さん、休日なのに予定ないんだ」
『ちげーよ。俺も色々お誘いがあるけど、お前がひとりで暇だろうから遊んでやってもいいって言ってやってるんだぞ』
「…………」
 笑いながらそう主張するが、敦行が親切で言っているわけではないことはわかっている。何か魂胆があるに違いないのだ。
 長年のつき合いで、それをこちらから問うてもはぐらかされるのも目に見えている。受話器を握りしめ、衣緒は敦行がしゃべるのを待った。
『ほら、お前、前に水族館行きたいって言ってただろ。動物園でもいいぞ』
「…………」
 たしかに行きたいと言ったことはあるが、それは小学生のときのことだ。そのときは面倒くさがって連れて行ってくれなかったくせに、勝手なものだ。
『どっか行きたいとこねーのか? ああほら、こないだお前んち行ったときにいたあのピアノの先生……なんて言ったっけ?』
「……倉橋先生?」
『そうそう、俺と二人きりだとまずいんなら、その倉橋先生とやらも誘ってもいいぞ』
 衣緒はますます怪訝そうに眉をひそめた。敦行とはこれまでも何度か二人で出かけたことがある。中学の頃、どうしても行ってみたい店や映画があるときにつき合ってもらったりした。母は仕事で忙しいし友達もいないので、敦行しか頼める人がいなかったのだ。
 ガキのお守りかよと文句を言いつつもつき合ってくれていたが、今更何を言い出すのだろう。衣緒が可知の恋人になったからといって、敦行が可知に気を遣うとも思えない。
「倉橋先生は演奏会の準備があるから無理」
 ……一瞬、電話の向こうで沈黙があった。
『そっか。そんじゃあやっぱ俺とデートじゃまずいよなあ』
「僕と敦行さんが出かけたって誰もデートだと思わないよ」
『いやいや、やっぱ可知に悪いからな。ま、また今度可知が一緒のときにでも飯食いに行こうぜ。じゃあな』
 唐突に切れた電話に、衣緒は首を傾げた。
「……なんだったんだろ?」
 足元で衣緒を見上げている愛猫に、思わず呟く。
(倉橋先生に会いたかったとか……?)
 そんな考えが頭をよぎり、いやいやと首を横に振る。
 自分たちじゃあるまいし、いつも違う女を連れている遊び人の敦行が男に興味を持つわけがない。
「敦行さんも気まぐれだからな。まったく、何考えてるんだか」
 猫を抱き上げ、衣緒は肩を竦めた。


「演奏会の準備、か」
 携帯の電源を切り、敦行は独りごちた。
 カウンターに肘をつき、グラスを呷る。金曜夜の六本木、行きつけのショットバーはほどよいざわめきに包まれて心地いい。
「あら、敦行さんじゃない。誰かと待ち合わせ?」
 顔なじみのホステスに声をかけられ、敦行は笑顔を作った。
「よう、あさみちゃん。今日は遅いんだな」
「そうよ。同伴だったんだけどさっき電話あってキャンセルされちゃって。敦行さんは?」
「俺? 俺もさっき振られたとこ」
 にやっと笑って見上げると、あさみが流し目をよこす。
「へえ……じゃ、お店つき合ってくれない?」
 ……このまま彼女の同伴出勤につき合うのも悪くない。あさみはいい女だし、多分店がはねてからもつき合ってくれる気なのだろう。
 彼女となら、週末をきっと楽しく過ごせる。
 思案するように、敦行はグラスを指でなぞった。
 ―――店内のBGMがピアノ曲に変わり、どこかで聴いたことがあるような優しいメロディが流れる。
「……や、せっかくだけどまた今度。ごめんな」
 立ち上がり、ぽんと彼女の肩に手を置く。
 そしてあさみが何か言わないうちに背を向けた。
 
 店を出ると、敦行は空を見上げた。
 ネオンで照らされた明るい夜空に、月が控えめに輝いている。
 その様子が、一度会っただけのおっとりと優しい雰囲気を漂わせる男の印象に重なった。
「たまにはひとりで過ごすのも悪くないかな」
 月に話しかけるようにそう呟き……敦行はポケットに手を突っ込み、機嫌良く雑踏へと踏み出した。

(2006.5.5)
posted by 神香うらら at 00:00| 商業誌番外編