2009年04月04日

「ご主人様にはナイショ」+「花嫁修業は恋の予感v」合体番外編 過保護な婚約者v

こちらも同人活動3周年記念本に掲載したものです。
この2冊はシリーズでもなんでもないのですが、同人誌ならではのお遊び企画ということで、綾也&千磨共演です。


 十月半ばの爽やかな午後。都心にある慶明大学のキャンパスの上空には、秋晴れの青空が広がっている。
(よし、今日はこれでおしまい!)
 三限目の講義を終えた萩原千磨は、トートバッグを肩に掛けて大教室の出口に向かった。
「千磨ちゃーん、これからお茶しに行くんだけど一緒にどお?」
 同級生のメグが追いかけてきて肩を叩く。
「あーごめん。俺ちょっと学生課に用事あるんだ」
「そっかあ。じゃあまた今度ね」
「うん」
 にこやかに手を振って教室の前で別れ、千磨は階段を駆け下りた。
 入学当初はメグをはじめ慶明大学のお洒落なクラスメイトたちに怯んだ千磨だったが、今ではすっかりとけ込んで大学生活を満喫している。メグやアユミ、その他数人のクラスメイトたちと時々ファミレスやボウリングに出かける余裕も生まれてきた。
 素直で可愛い千磨はなかなかの人気者で、男女問わず遊びに誘われることが多い。
 しかし合コンだけは、何度誘われても断っている。
(……興味ないっていうのもあるけど、章吾さんがうるさいからなー)
 ―――大安寺章吾。千磨の年上の恋人で、章吾の祖父公認の婚約者≠セ。
 互いの気持ちを打ち明けて、恋人としてつき合い始めたのはほんの二ヶ月半ほど前のこと。色々あって、今は章吾の屋敷で一緒に暮らしている。クラスメイトたちには『親戚の家に下宿させてもらっている』と言っているのだが……。
(……同じ部屋のダブルベッドで一緒に寝てるなんて誰にも言えん)
 夕べなかなか寝かせてもらえなかったことを思い出し、顔が熱くなる。
(いかんいかん! 思い出すなー!)
 教室棟を出たところでぶんぶんと首を横に振り、千磨は学生課を目指した。
 
 一階の奥にある学生課は、ひっそりと静まり返っていた。薄暗い廊下に、千磨の足音だけが響く。アルバイト募集掲示板の前にも誰もいない。
 夏休み以降、ここに来るのが日課になっている。千磨は新着情報だけ順に目で追った。
(あ、塾講師がある。あーでも土日だけか。うーん……やっぱ条件がなあ……)
 東京に戻ってから、千磨はすぐにバイトを探し始めた。もともと生活費は自分で稼ぐつもりで進学したのだ。
 しかし章吾に知られ、猛反対されてしまった。どうやら千磨が自分の目の届かないところで働くのが気に入らないらしい。
『ここにいれば家賃も生活費も必要ないだろう』
 そう言って章吾は不機嫌そうに眉を寄せた。これについては一緒に住むことになったときにも一悶着あったのだが、結局章吾の祖父に説得されて千磨はただで居候させてもらうことになった。
『そういうわけにはいかないよ。そりゃ俺が払える額なんてたかが知れてるけど、せめて食費くらいは入れたいし。それに教科書買ったり服買ったりとか』
『俺が買ってやる』
『いい。俺だってバイトもしたいんだよ!』
『帰りが遅くなったりしたら危ないだろう』
『はああ!?』
 まるで若い女の子のような心配されてしまい、千磨はムッとして眦をつり上げた。
 ―――しばし言い争った後、章吾がため息をついて腕を組んだ。
『わかった。じゃあ週に三日までだ。土日はバイト入れないこと。夜は十時まで。水商売は論外。飲食店も繁華街はだめ。塾講師はいいが、家庭教師はだめだ』
『土日だめって、それじゃあほとんど断られちゃうよ』
『俺は土日しか休めないんだぞ』
 要するに、自分と過ごす時間を確保しておけということだ。
『…………わかった』
 出来たばかりの恋人といちゃいちゃしたいのは、何も章吾だけではない。ほんのりと頬を染めて、千磨は頷いた。
『千磨……』
 そして章吾の手が千磨の桜色の頬に伸びてきて……。
(わああああっ!!)
 甘ったるい回想を、千磨は慌てて振り払った。
(だけど全然バイト決まらんし)
 章吾の出した条件に合うバイトを探すのは予想以上に困難だった。学生のアルバイトで土日だめ、夜は十時まで、などと言ったらまず門前払いだ。
(……お?)
 半ば諦めつつ掲示板を見ていた千磨は、最後の一件に目をとめた。
 ――慶明大学付属図書館内の業務補助。週三日程度。詳細は図書館カウンターへ直接お尋ね下さい。
(図書館のバイトかー。いいかも)
 大学図書館は夜十時閉館だし、大学構内の施設なら章吾も文句を言わないのではなかろうか。
 さっそく千磨は図書館に向かった。

 図書館のゲートで学生証をスキャンし、千磨は貸し出しカウンターの奥で作業をしているエプロン姿の職員に声をかけた。
「すみません、アルバイトのことでお聞きしたいことがあるのですが」
「はい」
 職員が振り返る。
(あれ? この人……)
 ちょくちょく図書館を利用しているので、職員の顔は大体覚えている。振り返ったのは学生アルバイトらしき若い男性だ。書架へ本を戻す作業をしているのを何度か遠目に見たことがある。
(か、可愛い……っ!)
 自分のことは棚に上げ、千磨は目の前の学生アルバイトに見とれた。遠目にも一際目立っていたが、間近で見るといっそう可愛らしい。
 背丈は千磨と同じかやや小柄で、まだ少年と言っていいような風貌だ。長い睫毛に縁取られた大きな目が、驚いたように千磨を見つめている。
「えっと……アルバイト希望ということですか?」
「え、ああ、はいっ」
 つい、まじまじと見つめてしまった。慌てて千磨はこくこくと頷いた。
「明後日の午後五時から、アルバイト希望者への説明会があります。まずそれに出席していただいて、後日個別の面接になります」
 『清水綾也』というネームプレートを付けた彼が、千磨に説明会のプリントを手渡してくれた。
「わかりました。ども、ありがとうございます」
 ぺこっと頭を下げて、千磨はプリントを畳んでトートバッグに突っ込んだ。
 一旦帰りかけて、くるりと振り向く。
「あのっ、すいません、バイトのかた……ですよね?」
「はい」
 彼も振り向いた。
「あのー、週三日程度って書いてありましたけど、土日出ないとだめとかありますか?」
 千磨の質問に、彼はふっと表情を緩めた。
「いや、そんなことないよ。土日にシフト希望が集中してて、むしろ平日の夜間に人手が足りなくて困ってるんだ」
「そうなんですか、よかったあ」
 思わず笑顔になると、清水綾也もくすりと笑った。
「俺も平日だけ入れてるんだ。バイト、受かるといいね」
「あ、はい、ありがとうございます!」
 もう一度頭を下げて、千磨はうきうきと図書館を後にした。
(感じのいい人だったな〜。一緒にバイトできたらいいな)
 顔立ちの可愛らしさだけでなく、彼からは何か温かい雰囲気が伝わってきた。
(一年生……ではないよな、多分。何年生だろ)
 校門に向かって歩きながら、千磨はもらったプリントを出して眺めた。時給はさほど高くないが、章吾の出した条件にも合うし、仕事内容も面白そうだ。
 さっそく章吾に報告しなくてはと考えながら、千磨は最寄りの駅へと歩いた。

 
「すみません、ちょっと失礼しますー」
 図書館の業務補助のアルバイトに採用されて一週間。
 支給された紺色のエプロンとネームプレートを付けて、千磨は返却図書の積み上げられたカートを押してエレベーターに乗った。
 バイト説明会には二十人あまりの学生が参加していたが、面接の結果、採用されたのは五人だけだった。幸いその五人の中に入ることができ、千磨は火、水、木曜日の午後五時から十時まで勤務することになった。
 章吾は、自分が出した条件に合致するバイトがあったことに驚き……渋々、認めてくれた。
 エレベーターが三階に止まり、重たいカートを押して降りる。
 学生バイトの主な仕事は、返却された本を書架に戻す作業だ。カウンターで返却本をラベル別に仕分けてカートに載せ、ある程度溜まったら館内の書架へ戻しに行く。
(えーと、三百番台の棚は……)
 まだ館内の配置を覚え切れていないので、エプロンのポケットから配置図を取り出して確認する。
 バイト初日は、会議室で職員による図書館のシステムの説明会があった。その後、職員や先輩アルバイトと二人一組になって手順を教わりながら書架への戻し作業していたが、今日から一人でやらなくてはならない。
(三百五十番台はここだな)
 バイトが真っ先に覚えなくてはならないのがこのラベルの読み方だ。だいたい理解できたが、時々わからない本が混じっている。
 とりあえずわかる本だけ戻していって、わからない物は後回しにする。
「すみません、本探してるんですけど……」
「あ、はいっ」
 女子学生に声をかけられ、千磨は振り向いた。
 返却作業をしていると、こんなふうに本の場所を尋ねられることが多い。
「これなんですけど。さっき検索したら、貸し出し中ではないみたいなんですが」
 書名と請求記号の書かれたメモを受け取り、千磨は棚を見上げた。
(番号で見るとこの辺なんだけど……)
 本が見当たらない。
「あ、清水さん!」
 ちょうど返却図書を積んだカートを押した綾也が通りかかり、千磨は小声で呼び止めた。
 綾也が気づいて、カートを通路脇に置いて近づいてくる。
「どうしたの?」
「すみません、この本どこにあるかわからなくて……」
 千磨からメモを受け取り、綾也は棚を見渡した。
「……これかな?」
 千磨が探していた場所から少し離れた場所に、目的の本が収められていた。どうやら見当違いの場所を見ていたようだ。
「それです。ありがとうございます」
 女子学生が礼を言って綾也から本を受け取った。
 彼女が立ち去ってから、千磨は綾也に小声で囁いた。
「すみません、呼び止めちゃって」
「いや、気にしないで。あの番号はちょっとわかりにくいから」
 綾也がラベルの見方を説明してくれる。
「なるほど、そういうことだったんですね」
「俺も最初はわからないことだらけだったし。遠慮せずにどんどん聞いて」
「はい、ありがとうございます」
 千磨が礼を言うと、綾也はにっこり笑って自分のカートへと戻っていった。
(清水さんて素敵な人だな〜)
 華奢な後ろ姿をうっとりと見つめる。
 初日に新人バイトがカウンターに集合したときにちょうど綾也もカウンターの中にいて、千磨に声をかけてくれた。
『受かったんだ。よろしくね』
『はいっ! こちらこそよろしくお願いします!』
 綾也は経済学部の四年生だった。年上だろうとは思っていたが、三つも上だとは思わなかった。
 バイト初日は職員の人と作業をしたのだが、二日目と三日目は綾也と組んで色々と教わった。
 初対面の印象通り、綾也は明るくて感じのいい青年だ。シフトがほとんど同じなので、千磨はすっかり綾也に懐いてしまった。
 しばらく黙々と返却作業を続ける。
 全部戻すと、千磨はカートを押して一階のカウンターへ戻った。
「あ、萩原くん。キリがよかったら休憩入ってくれる?」
「はい」
 職員に声をかけられ、千磨はカウンターの奥からバックルームへ荷物を取りに行った。四十五分間の休憩があるので、たいてい学食に夕食を食べに行っている。
 エプロンを外して畳んでいると、綾也が部屋に入ってきた。
「萩原くん、休憩?」
「はい、学食行こうと思って」
 頷くと、綾也もロッカーから荷物を取り出した。
「俺も。一緒に行こ」
「はいっ」
 千磨はぱあっと顔を輝かせた。綾也とは話も合うし、何より一緒にいて楽しい。
 学食に向かいながら、千磨は隣を歩く綾也を見た。
「昨日バイトの山田さんに聞いたんですけど、清水さんが就職するの、永石不動産なんですってねー」
 綾也が就職が決まっていることは知っていたが、会社名までは知らなかった。昨日聞いた話を、千磨は何気なく切り出したのだが……。
「えっ?、あっ、う、うん」
 なぜか綾也が、ひどく狼狽えた表情になる。
(ん? 俺なんかまずいこと言ったかな?)
 怪訝に思い、千磨は懸命にフォローした。
「よくコマーシャルとかしてますよね〜。学生向け賃貸のエヌ・プラネットとか。俺、前はすごいボロアパートに住んでたから、ああいうちょっと高級路線の賃貸って憧れてたんですよ〜」
「ん……そうなんだ」
 薄闇の中でも、綾也の頬がほんのり赤くなるのがわかった。
(照れてるんかな? あの永石不動産に就職するんだからもっと自慢したってええのに、清水さんてば奥ゆかしいなあ)
 年上ながら可愛いと思ってしまい、千磨はこっそりと口元を緩めた。
 学食に着いて二人でメニューを見ていると、綾也がポケットから携帯電話を取り出した。マナーモードの携帯がブーブーと唸っている。
 液晶を確認し、少し戸惑った表情になり……綾也は千磨に「悪い、先に行ってて」と告げた。
「……うん、うん、わかった。じゃあ後で」
 小声で電話の相手の言葉に頷いている。
 その横顔を盗み見て、千磨は目を見開いた。
 セリフは淡々としているのに、綾也の表情は見たことないくらい嬉しそうだ。
 嬉しいというか、「幸せ」という言葉がぴったりの……。
「ごめん。メニュー決まった?」
 短い会話を終え、綾也はすぐに千磨の傍に戻ってきた。頬が紅潮している。
(彼女かな)
 綾也は可愛いし性格もいいのでもてそうだ。実際、一緒にバイトに採用になった同級生の女の子が「清水さんてめちゃくちゃ可愛い……」と目をハートにしていた。
「んー、本日の定食にしようかな〜と」
「肉じゃがかー。俺もそれにしよっと」
 連れだってトレイを手にして列に並んだところで、今度は千磨の携帯が鳴り始める。
(うっ、この着信音は……)
 章吾だ。今度は千磨が「すんません」と言って列を離れる。
「もしもし?」
『俺だ。バイト、十時に終わるんだろう? ちょうど俺もその頃会議終わるから迎えに行く』
「え? いいよ、電車で帰るから」
 婚約者のふりをしていた頃は永島の運転する車で大学まで送迎してもらっていたが、後期からは普通に電車で通学している。章吾は今までどおり車に乗っていけばいいと言ったが、千磨は固辞した。
 バイトを始めたときも、バイトの日は迎えに行くと言われて一悶着あったばかりだ。
『図書館の裏に駐車場があっただろう。そこで待ってるから』
「ええ? いいってば!」
 しかし千磨の答えを聞かずに電話は切れてしまった。
(もう……人の話全然聞かねーし)
 呆れて携帯をぱたんと閉じ、列に並び直す。
 レジのところで綾也に追いついて後ろに並ぶと、綾也がにこっと笑って振り返った。
「彼女から電話?」
「ええっ!? ち、違いますよ」
 慌てて千磨は否定した。
 彼女ではなく、彼氏なのだが……そんなことは口が裂けても言えない。
「そうなの? なんかすごく嬉しそうな顔してるから」
「……そ、そっすか?」
 思わず自分の頬に手をやる。
 頬が驚くほど熱かった。それを知ってますます熱くなる。
(な、なんだよもう〜)
 章吾からの電話でそんなに嬉しそうにしていたなんて、自分では全然気づいていなかった。気恥ずかしくてたまらない。
 それでも、心が浮き立っていることは認めざるをえない。
 章吾の運転する車で、助手席に乗ってあれこれ話すのは楽しい。
(家に帰っても同じ部屋なのに……終わっとる)
 少しでも一緒にいたがる章吾に、いい加減べったりすぎだろう……と呆れているのだが、実は自分も同じなのかもしれない。
 誰かとつき合うのは初めてなので、千磨はなかなか素直に甘えられずにいる。
「あそこの席空いてるよ」
「あ、はいっ」
 レジで精算を済ませた千磨は、ぎくしゃくと綾也の後を追った。


「お先に失礼しますー」
「ああ、お疲れ様」
 午後十時を少し回って、千磨はカウンターでパソコンを操作している職員に挨拶をした。
 閉館時間は十時だが、職員はそれから戸締まりの点検などの仕事が残っている。千磨たちアルバイトは基本的に残業はなく、十時になったら一斉に上がることになっている。
「あ、お疲れ様です」
 ロッカーの前で綾也の姿を見かけて、千磨は声をかけた。
 携帯電話のメールを確認していた綾也が顔を上げる。
「あ、お疲れ様」
 学生証と兼用になっているIDカードをスキャンして退出の手続きをし、千磨は綾也と連れだって職員用の通用口へ向かった。
「萩原くん、休憩時間の後の返却作業、なんかすごいピッチ速かったねー。だいぶ慣れたみたいだね」
「ええ、なんかコツが掴めてきた感じです。慣れてくるとなんか面白いです」
 休憩時間の後は、自分でも驚くほど効率よく作業ができた。何度か学生に本の場所を聞かれたのだが、今度はすんなりと探し当てることもできた。
「返却してるとえーこんな本あるんだーって思って気になったりしません?」
「なるなる! 俺、気になって借りてみたことあるよ」
 他愛のない話をしながら通用口から外に出ると、秋の夜の冷気に背筋がぶるっと震えた。
「俺、今日はこっちだから……」
 綾也が校門方面ではなく、図書館裏の駐車場の方向を指さす。普段は綾也も電車なので途中まで一緒に帰ったりしているのだが、今日は車で来ているのだろうか。
「俺も今日はこっちなんです。清水さん、車で来たんですか?」
「いや……家族が、ついでがあるから迎えに来てくれるって……」
「あ、俺もです」
 千磨は綾也と並んで駐車場へ向かった。
 蛍光灯に照らされた駐車場には、ぽつりぽつりと数台の車しか残っていない。
 入り口に近いところに章吾のベンツを見つけ、千磨の胸がとくんと高鳴る。
「じゃあ、ここで失礼します」
 駆け寄りたい気持ちをぐっと抑え、千磨は綾也のほうを振り返った。
「え、ああ、うん。お疲れ様」
 外灯の下で、綾也の顔がほんのり上気しているのがわかる。大きな瞳は、じっと一台の車を見つめていた。
 章吾のベンツと一台分の空きスペースを挟んだところに停まっているBMWだ。二台とも、こちらにフロントガラスを向けて停まっている。
 心なしか、綾也は弾むような足取りで車に向かっていった。
 千磨も章吾の車に歩み寄る。
「お待たせ!」
 助手席のドアを開けて乗り込む。なんとなく照れくさくて、千磨は前を向いたままシートベルトを締めた。
「さっき着いたところだ。一緒にいたのがお前が言ってた清水さん≠ゥ?」
「え? うん、そう」
 バイトを始めてから、千磨は無意識のうちに綾也の話ばかりしていたらしい。章吾に誤解され、そんなんじゃないと喧嘩したことを思い出す。
 顔を上げて、章吾越しにちらりと綾也が乗った車のほうを見ると、助手席の綾也と目が合った。
 綾也がにこっと笑って手を振る。
 千磨も笑顔になり、身を乗り出して綾也に向かって手を振った。
「ふーん……なるほど。心配する必要はなさそうだな」
 章吾が千磨を見下ろして呟く。
「え? なに?」
「いや、なんでもない。ところであの運転席の男、名前知ってるか?」
「ううん。清水さんは家族だって言っとったけど」
 もう一度身を乗り出して綾也の乗った車を見やると、ちょうど発車したところだった。
 ちらりとスーツ姿の若い男の横顔が見える。遠目にもなかなかの男前だ。
「うーん……どっかで見たことあるんだよなあ……異業種交流会だったか、どこかの会社の創立記念パーティーだったか……」
 章吾が顎に手を当てて首を傾げる。
「そうなん? お兄さんとかかな」
「いや、あれは多分……」
 言いかけて、章吾はふっと口元を緩めた。
「まあ人のことはいいさ。千磨、腹減ってないか」
「うん、学食で飯食った」
「それじゃあまっすぐ帰るとするか」
「うん……う!?」
 素早く覆い被さってきた章吾にキスされ、千磨は目を見開いた。
 唇を軽く合わせただけで、舌は入ってこなかったが……。
「な、なにしとんじゃ、誰かに見られたら……っ」
「誰も見てないって」
 章吾が笑ってイグニションキーを回す。
 黒いベンツは、ゆっくりと夜の街へと走り出した―――。

(2008.10.26)
posted by 神香うらら at 00:00| 商業誌番外編